ナミビアもアパルトヘイト政策が行われていたという現実。南アフリカだけじゃない!
南アフリカでは、アパルトヘイト(人種差別が法的に認められた)政策が行われていたことはとても有名ですが、ナミビアにおいても、アパルトヘイト政策が行われていました。黒人は人種差別をされ、カラードと言われる白人との混血の人も同様に、居住区などが分けられました。
青年海外協力隊のナミビア隊員は、首都で1か月の訓練後に活動先である任地に派遣されます。その訓練の一つとして、ナミビアのアパルトヘイト政策について学びました。ナミビアの歴史などを学びながら、当時の黒人の使用する病院やスラム街などを見学しました。
ナミビアの独立は1990年ですが、1994年頃までアパルトヘイト政策が行われていました。ナミビアは、1884年~1918年までドイツの植民地になり、ドイツの敗戦後、イギリス統治下の南アフリカの委任統治となり、実質的にナミビアはしばらくの間、「南西アフリカ」という名前で、南アフリカの委任統治領になっていました。その影響により、ナミビアにおいてもアパルトヘイト政策が行われていました。
ナミビアの行政の方に案内をしてもらいましたが、その方は、50歳(2018年現在)でしたので、20歳頃実際にアパルトヘイト政策によって拷問を受けたとおっしゃっていました。鞭でたたかれたり、顔を思いきりつねられたりし、ひどい仕打ちを受けたといいます。そして、何もない状態で、ナミビアから、裸足でボツワナ、ザンビア、そしてケニアまで歩いて逃げたとのことです。このアパルトヘイト政策が終わった後、ナミビアに戻ってきたといいます。
白人のみのエリア、黒人のみのエリア、そしてカラード(黒人と白人の混血)だけのエリアと分かれていたといいます。ただし、柵などがあったわけではなく、道一本隔てた向こう側に強制的に住まわされていたと言います。そして、仮に中に入ってしまったら、罰せられるという非人道的なものであったといいます。
また、トイレも黒人、白人に分かれ、土曜日は、白人のみが外を歩くことが許され、黒人は、外を歩くこともままならないと言っていました。
当時黒人のみ利用する病院も見学しました。現在でも黒人の貧困層の方々が使用する病院となっており、見たからにあまり良い施設ではないような雰囲気で、いまだに隔たりがあるように感じました。
この病院は10ドル(約80円)で治療を受けることができると言いますが、長い列に並ばなければならずずっと並んで待っていたとしても、5時になれば病院は閉まってしまい間に合わなければ、受診することはできません。この病院は「死が早まる」と皮肉ぶって説明していたことが、印象的でした。
また、白人の経営する私立の病院についても見学しましたが、とてもきれいで日本の病院とそん色ない設備でした。このギャップにも驚かされました。
貧困層は大きなスラム街を形成しています。「カトゥトゥーラ」という地区ではトタンでできた家が無数に立っており、下水などが完備されているはずもありません。違法の電気の配線も作られています。
劣悪な環境で生活をすることは、健康を維持することは、容易ではないと予想されます。アパルトヘイト政策によってできた貧困の悪循環が続いていました。
何年も続いた政策によって根付いてしまった貧困の悪循環は、小さな支援でもよいので、物的、教育的支援などを行い少しずつ断ち切っていく必要性があると思います。
あわせてこちらもどうぞ