ナミビア 〜Nombili のんびり〜

タイトルの「Nombili のんびり」とは私が活動している 地域のオシワンボ語の挨拶で「平穏」「穏やかな」という意味です。世界が平穏であってほしいと願いこのタイトルにしました。青年海外協力隊として活動しながら、大学院にて開発学についても学んでいます。様々な角度から綴っていきたいです。

3分でわかるナミビアの歴史

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~少し詳しく~

ナミビアの独立までの歴史

 ナミビアの独立までの歴史について簡潔に述べていく。もともと、狩猟民族のコイコイ人やサン人が暮らす地域であった。約2000年前に北部から移動してきたバントゥー系の言語を話す農耕民[1]と出会い、モノを交換するなど、関係性を保ちながら暮らしてきた。

1884年から第一次世界大戦までの30年間ドイツによって植民地とされ、「ドイツ領南西アフリカ」となった。1904年ドイツ人に対し蜂起がおこり、ヘレロ戦争が勃発した。その際、ドイツ軍は、ヘレロ人を一人残らず殺すように命じた。また、何万人ものヘレロ人がカラハリ砂漠に押し込まれた。(The Guardian [2017])

 

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https://www.theguardian.com/world/2016/dec/25/germany-moves-to-atone-for-forgotten-genocide-in-namibia

 ナマ人のヘンドリック・ヴィットボーイ[2]率いてドイツ軍に対抗したため、ナマ人も多くの犠牲者を出した。1907年に終結したが、この戦争によってヘレロ人の80%以上、ナマ人の50%以上が殺害され、9万人(The Guardian [2015,2016])を超える犠牲者を出し、最終的に16,000人しか残っておらず、20世紀最初の大量虐殺として知られるようになった。その後、分断支配政策を推し進め、「黒人居留地制度」をつくり、「農業・畜産業に有益な中央高地や南部の地域を白人居留地として、独占し、他の不毛な土地を黒人居留地と定め、黒人ナミビア人を強制的に住まわせた」(千葉[2003:129])

 

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https://www.theguardian.com/world/2017/sep/14/us-museum-storing-remains-of-namibian-genocide-victims#img-1

 第一次世界大戦中の1915年、南アフリカ軍はドイツ軍を追い出し、ナミビアを占領した。国連はナミビアの独立を前提としていたが、1946年に、実質的に5番目の州に実質的に編入し、国際連合の勧告を無視してナミビアの不法統治を行った。南アフリカは、1948年「アパルトヘイト[3]」を法制に定め、「黒人やカラードを容赦なく踏み台にして、白人優位の社会階層を固定化」(山崎 [2017:Kindle版,No.123])した。1959年に南アフリカにおいて、「各部族の『部族別居住地域』に住まわせるという『バンツー自治促進法』が制定」(山崎 [2017:Kindle版,No.375])され、1960年代にナミビアにも適用された。オデンダールプランという政策の下、民族ごとに分けられたホームランド制を敷かれた。これは、「ドイツ植民地政府が築いた分断支配政策を再編・強化するもの」(千葉[2003:130])、「別々の土地を故郷とする構図が作りだされ(中略)互いの対立が扇動された。」(水野・永原(峯)[2015:136])ナミビアの90%を占める黒人には、GDPの12.8%が、10%の白人に81.5%が享受されていた。(Chris[2017:10])

 

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ホームランドの分割図(1964年)と現在の県

(左)オデンダールプラン:1.Damaraland, 2.Kaokoland, 3.Ovambo, 4.Kavango, 5.East Caprivi, 6.Bushmanland, 7.East Hereroland1, 8.West Hereroland, 9.East Hereroland2, 10.East Hereroland3, 11.Rehoboth, 12.Namaland(その他はすべて白人所有)

(右)現在:1.Karas, 2.Hardap, 3.Khomas, 4.Erongo, 5.Otjozondjupa, 6.Omaheke, 7.Kunene, 8.Omusati, 9.Oshana, 10.Oshikoto, 11.Ohangwena, 12.Kavango West, 13.Kavango East, 14.Zambezi.

出典:A short socio-spatial history of Namibia

 

 南アフリカからの独立運動の中心となったSWAPOは、1970年代に国連にナミビアの代表であることが認められた。独立運動が活発化し、SWAPOは一時、武力行使を実施した。また、ナミビア北部のアンゴラにはキューバ軍が駐留し、アンゴラ政府軍とともに南アフリカ軍に対抗した。当時のソビエトは、南アフリカを西側同盟国とみなしていたため、SWAPOを部分的に支持し「東西代理戦争」に発展した。そして、戦争の激化によって1988年キューバ軍と南アフリカ軍は撤退し、国連監視の下、独立選挙が実施されSWAPO議長であるサム・ヌヨマ(Sam Nujoma)が初代大統領に就任し1990年に独立した。(Chris [2017:11])

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[1] 西アフリカのナイジェリア東部からカメルーン西部の地域が起源とされ、アフリカ諸言語は大きく分けて5つの語族に分類され、その中の1つのニジェール・コンゴ語族に含まれる。

[2] 現在の200ナミビアドル札の肖像画となっている。

[3] アフリカーンス語で「分離・隔離」を意味し、人種差別を法的に制度化したもの。

 

参考文献

・The Guardian (2017) “US museum 'storing remains of Namibian genocide victims'” https://www.theguardian.com/world/2017/sep/14/us-museum-storing-remains-of-namibian-genocide-victims

・The Guardian (2016), “Germany moves to atone for 'forgotten genocide' in Namibia”

https://www.theguardian.com/world/2016/dec/25/germany-moves-to-atone-for-forgotten-genocide-in-namibia

・The Guardian (2015), “Dear Pope Francis, Namibia was the 20th century’s first genocide”

https://www.theguardian.com/commentisfree/2015/apr/18/pope-francis-armenian-genocide-first-20th-century-namibia

・ヘニング・メルバー編(1990) 『わたしたちのナミビア――ナミビア・プロジェクトによる社会化テキスト』現代企画室(PQブックス)

・山崎雅弘(2010)「アパルトヘイト」六角堂出版kindle

・Chris Mclntyre (2017) Namibia, “the Bradt Travel Guide” pp5-13

 

修士論文からの抜粋になります。執筆やブログ等に引用する際は、ご連絡ください。

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